いま、私の想うクラシック

鴨川 純佳


好きなことが書ける、そんなページに、はて?何を書こうか悩んだ挙句、私は原点に立ち返ることにした。
音楽情報・社会コースに私は何を求めてきたのかと・・・
それは目に見えない、音として存在する音楽を言語化する力を身につけたいという、たいそうな思いであった。
コースに所属して早一年、その力はどれほど 付いた のだろうか?
力試しを兼ねて、今回私は音楽、とりわけ思い入れのあるクラシックについて、つらつら書いていこうと思う。
 

大人になったらモーツァルト


 モーツァルトといえば、代表作である《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》や《トルコ行進曲》のような、明るく快活でころころしたイメージだった。以前の私 はその浮世離れしたような、モーツァルトの作品が好きになれなかった。何を考えているかわからない、よく見る不気味な肖像画のモーツァルトに、すべて見透かさ れている感じがして怖かったのだ。しかし最近になって、歳を重ねたおかげか?音楽を大学で学んだおかげなのか?そんなモーツァルトの作品が、多くの人を惹きつ けるのはなぜなのか、わかるようになってきた。

 彼の作品には主人公がいない。生身の人間の感情ではなく、誰もが理解できる普遍的なそれが流れている。人の言葉では言い表せない感覚が、彼の音楽によって 多くの人の共感できる形となっているのだ。だからこそ彼の作品は、現在にまで残る名曲になれたのだろう。また、その作品がもつ親しみやすさに秘められた普遍的 な感情を、素直に受け入れられるのは大人になってからだろう。なぜなら、世の中との関わりが少ない子供は、どうしても自分を中心にして考えることしかできず、 普遍的なことを受け入れられる器をもっていないからだ。実際に私もそうだった。だから好きになれなかったのだろう。

  有名であるがために、誰もが幼い頃から聴いているモーツァルトの音楽。大人に足を踏み入れた今、じっくり聴き返してみたい。皆さんにもぜひ聴いていただきたい。あのころこ ろとした音の流れに、共感できる何かを見つけることができるはずだ。年齢によってこんなにも感じることが変わる音楽なんて、そんなにあるものではないと思う。 さすがは天才モーツァルト。

モーツァルトのイラスト





タイプすぎるラヴェル


 背が高くて容姿端麗、だけどダサい彼。背は低くて容姿もそんなに、だけどお洒落な彼。付き合うならどっちを選ぶ?
私は迷わず後者をとる。「元がダサくても自分の趣味に合わせて変えていけばいいじゃない、それが楽しいんだから」と言う人もいるかもしれない。でも私はお洒落 に関心のない人とは、根本から気が合わないと思っている。なぜなら私は猛烈に、お洒落なもの、センスが良いものが好きなのである。街でお洒落な人を見つけた ら、じっと観察してしまったりもする。また、同じような境遇の誰かと、そのことについて話すのもたまらなく好きなのである。だからもし付き合うのなら、背は低 くて容姿もそんなに、だけどお洒落な彼なのである。

 なぜこんな話をしてるのかというと、私のタイプ、つまり後者がまさにラヴェルだからだ。実際にラヴェルは背が低かったらしいのだが、タイプなのは容姿ではな く、ラヴェルのセンスなのである。どの作品もお洒落でうっとりしてしまう。同時代、同じくフランスで活躍していたドビュッシーの、自然の流れで偶然生まれ出た ような作品とはまるで違い、精密に造りあげられたラヴェルの作品からは人工的な感じさえもする。しかしその確固たる枠組みの中で垣間見せるフランスっぽい色気 がたまらなく素敵なのである。そんなラヴェルの、制限がある中で最大限のお洒落をさせる、カリスマスタイリスト的な能力は、彼の色彩豊かなオーケストレーショ ンによく現れている。わかりやすいのは自らのピアノ曲を管弦楽版に書き直した《マ・メール・ロワ》や《ラ・ヴァルス》などであろう。鉛筆で描かれたデッサンが 鮮やかに色付けされたかのようにアレンジされているのだ。限られた絵の具、そう、オーケストラの楽器であそこまで鮮やかな曲に仕上げるセンスと共に、決してゆ らぐことのない根幹を書き上げるデッサン力も感じさせられる。そんな二つの顔を併せ持ったラヴェルに、私はもうずっと惚れている。これからも私の中でのラヴェ ルは、変わることなくタイプな彼として存在し続けるだろう。叶わない片思いのままずっとずっと。


ラヴェルのイラスト



 クラシックは敷居の高いものだというイメージがある。これは仕方ないことである。
なぜならクラシック音楽は、人に好かれることを目的としていないため、 向こうから私たちに近づいてくれることはないのだ。
なんてワガママなんだろう。
私たちから歩み寄っていかないと仲良くしてくれない。こころを開いてくれない。
 だからクラシック音楽を理解するには覚悟が必要なのである。彼らとの距離感を縮めるための勉強を惜しまない覚悟が。
しかし、そんなクラシック音楽のワガママに、相手するのは一部の人で十分だ。
距離を置かれたのだから、わざわざ間を埋める必要もない。
その距離感で楽しめれば十分だと思う。もしかしたらクラシック音楽もその方が嬉しいのかもしれない。
自分に見合ったクラシックとの距離感でぜひ一度聴いてみてほしい。


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